昭和五十七年八月二十四日 朝の御理解
 御理解第五十八節
人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人      をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。


教祖様は、子孫繁盛家繁盛の道を教えられておるのです。本当の繁盛につながる道を説 いておられるのです。ですから、どうしても本当の信心を体得しなければならんのです。そこに本当のおかげが伴のうてくるのです。おかげに、嘘とか本当とかというふうにあるとは思われませんけれども、それが繁盛につながるおかげでなからなければならない。その時だけであったり、この方は一代仏を嫌うとおっしゃるように、一代で終ったりでなくて、いわゆる親の代よりも子の代、孫の代と繁盛して行くような元。金光大神は、そういう繁盛の道を教えられるのです。
ですから、これはどうしても本当な事、私共が様々な、ま、災いされてというか、ね。 先だってから、お話ししとりますように正しい事と本当な事は違うと。それを、ま、正しい事の中には義理とか人情とかというものも入ってくるでしょうね。または、正直といったような事も入ってくるしょうね。けれども、教祖ははっきりおっしゃっておられる。あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うても人に悪い事をせぬ正直者でも難儀が続いておる、とおっしゃる。信心しておかげを受けるのは別物とおっしゃる。
教祖金光大神は、おかげの受けられる本当の道を説かれたのです。だから、ただ正直と か正しいとか、私共が観念して来た、ね、私共が、ま、いうならば小学校時代に終身科というのがありましたですね。例えば、親孝行なら親孝行でもね、それが金光大神はおかげにつながる親孝行を説かれたのです、ね。ですから、場合によっては親に不幸をして神に孝行してといったような教えが出てくるわけですね。その一面だけを見ると、あの人は信じんしょって親に不幸の人じゃある。親の言う事を聞かないから、そういう場合もありましょう。けれども、真の親孝行というのが段々分かってくると、まずは神に孝行する事が先決でなからなければならない。そこから神様がさしてくださる親孝行を教祖は教えておられるんですよね。
その辺のところの、こう合間のところが非常にその誤解を受けやすいところがあります が、今日の御理解で言うなら、場合にはそれこそ泥棒じゃ乞食じゃというような、も、本当に人非人と言われるような時もあるかもわからんです、あるです。そこを通るです。信心しとる奴ばかりは、というふうに悪口言われる時もあるです。けれども本当な事はね、それは信心のない者でも思わないような考えないような事をせよという事じゃありませんけれども、本当の道の中にはです、ね、人のどんなに、ま、悪口を言われるような事があってもそれが本当な事であるならばそれを行じ貫いて行かなければね、本当な道に出る事は出来ないのです。
その本当な道こそです、ね、子にも孫にも、いわゆる目出度目出度の若松様よ枝も栄え る葉も繁ると言うではないか金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと、本当に繁盛する、本当の教えを説くのだと、ま、おっしゃとられるわけですね。だから、金光様の御信心ばっかりは人情じゃいかん、いわゆる義理人情じゃいかんのです。場合によったら、見方によると不義理な不人情のようなところがあるのです。けれどもそれを本当だと、これは教祖御自身の御信心の中にも、それが、ま、いくらでも見られます、ね。
だから、神徳を受けよ、人徳を得よ。、まずは神徳を受ける事が先決だとおっしゃっと られる。人からよう言われようよう思われよう、人徳を人徳をと言うて、ま、そうですね、いかに人徳が集まっても、いうならば一生を清貧に甘んじるという人が過去においてはいくらもありましたですね。
聖人君子と言われる程しの、いうなら立派な方であっても、ね、難儀が続いておるとい う。教祖の神様は、その難儀をいうなら難儀をするという事ではない。それこそ枝も栄える葉も茂るという繁盛の道を教えられたんです。
その繁盛の道の中には、今日の御理解のように、例えば、ま、信心の道を行じていって おりましてもね、いろんな陰口や悪口を聞くような場合もありますけれども、ね、そこんところをこれは絶対、これは間違いない本当な事だ、ということを合楽では私が実験実証して、皆さんに説いておるのですから、間違いないと思うです、ね。
だから、私の説くところ場合によっては人から悪口を言われるような事もあれば、非難 されるような時もあるかも知れませんけれども、だからそこんところにヘコタレてはならぬ、いよいよ信心の帯をして行けとこうおっしゃっとられますよね。
昨日、私、昼こちらへ出て参ります時に丁度テレビで、あの橋幸夫さんという歌手がお ります。あの人の豪邸訪問という、も、素晴らしい、ま、お屋敷というようにね、お家が出来た。そこを拝見というような、ま、番組でした。素晴らしいお家で、ま、一家一族の者が幸福をしておられるという感じですね。一人が成功したために。
最近では、非常に気学に凝っておられる、易学ですね。その易を、橋幸夫に見てもらお うという人達も、この頃、やっぱ何百人といって見てあげた、とこう言ってました。本当に、こう五と五と足せば十になるというように、その、ま、計算なようなものですね。易学というのは。やっぱりちゃんと答えが出てくるわけですね。こういうふう、ね、運命を開いていく為にはこうせんならんとかね、お金の貯まらん人はこういう生き方になるとお金が貯るとかというような、それを易学へこう教えてあげるというわけです。それを、それこそ何気なく見ておりましたら、橋幸夫さんという人は和服の似合う人ですよね。その和服を着てから出ておるんですけれども、どんなに見ても、私の目から見ると、こ、左胸に繕うておられるんです、着物をね、左前なんです。これは、私の心眼であった事がわかります、ね。
例えばね、易学なら易学を勉強して易に基づいた生き方をする、と、いう事は、もうい よいよ世間を狭くする事なんです。今日は、あちらの方へ向かって旅行をしてはならない、ね。家を建てるにはこうしなきゃまらない。もういよいよ自分というものを窮屈にしていく事になるのです。だから、橋幸夫は、ね、これから、そりゃもう今迄はまあ何ちいうですか、売れた売れたというようにま売れましたわけでしょうね。流行ったわけですけれども、これからは左前になると、いう、と、いう事だと、私は思いました。
この着物を繕うとる、左前になっとるとです、ね。なぜそうなるのかと、それはね天地 に対するいうならば、ね、自由無碍というかね、まあいうならね、天地には天地の一つの法則というものがある。あの易学なんかというのは法則の裏をかくものです。例えば、よく弁護士さんなんかの頭のええ人が悪い事をするというのは、六法全書なら六法全書を、も、知りつくしてるわけですね。だから、その法の裏をかくわけですね。それでも法にひっかからんから、それで得々としておるけれども、やっぱり見る者が見るとあれは悪い事ばっかりするというふうに、こ、目をつけられておるから、人間ですからいつかどこかに落とし穴がある。どこかで失敗をする。その時にガバッと、こう捕らえられてしまう、おかげを落としてしまう。
橋幸夫の私は、それはそういう事だと思うです。人にまで見てやって、人にまで教えて あげられる、こうすりゃ運命が変わって良い運命になる、助かるといったような事ですけれども、それはどこまででもいうなら天地自然を無視した、その裏をかくようなものなのです。
天地自然の働きをです、の中に、それを私共がね、それを、ま、いうなら合掌して受け ていく。人間万事塞翁が馬じゃないですけれども、もうその時点時点を人間というものはこんなものだというのじゃなくて、人間というものはこんなものだから、それを神愛として有難く受けていく。有難い有難いで受けていくところにです、悪い事が起こっておってもそれが良い事へ良い事へというふうになっていく、という生き方を教祖様は教えられたんですね。
この方の道は、有難い有難いで開けた道じゃから有難いで苦労はさせん。別に易学をい うならば勉強しなくても、ね、そういういうなら事でです、も、呪い迷信呪いにも似たような事で御比礼が立っていきよるという教会もやっぱあるんです。ですから、そういう教会は必ず、いうならば親の代より子の代と繁盛にならずにね、そういう、なら易学なら易学を勉強した人の居る間はいいかもしれん。それでもやはり人間ですからどこに失敗があるやらわからん。そこにおかげ落としの落とし穴があるのですから、ね。私共はいうならば正しい事とかね、と、いうならば人道的ではないような教えすらあるんですよね、教祖の御教への中には。
人から馬鹿といわれても乞食といわれてもね、兎に角御神徳を受ける為の信心をさして 頂くという事は、ね、人間が幸福になる本当の道を教えられるのです。本当の道を歩いておると、それをまるっきり気違いか馬鹿のように言われるような場合もありますけれども、ね、その本当の道をいよいよ行じていく。
いうならば、心、あり方とかなし方とかによって運命が変わるというのじゃなくて、心 一つで運命が有難い運命に変わっていく手立てが、私、教祖金光大神の教えであると思うです、ね。そこから、人間心を、いわゆる人間心とここでは言いますがね、人間心では本当の助かりにも本当の繁盛にもつながらない。どこまでもいわゆるね、本当の心。
人間の、いうなら人間万事塞翁が馬であってね、良い事悪い事、見た目にそれはあるん ですけれども、が、そういうもんだと言うふうに頂き方をするところに栄枯盛衰世の習いというように、繁盛したかと思えばまた衰えるというような結果になるのです。だから、教祖様はね、それをね難儀な事困った事とは教えておられない。難儀と思う事そのことがおかげだと、難あって喜べとか、何は霊験であると教えられておられる。
問題は、その難と思われる人間的見方からそれを分からせて頂く為に、ね、信心するも のは肉眼をおいて心眼を開けとおっしゃる心眼をもってしないと分からない。信心の眼、それが本当な事なんです。本当の見方なんです。それを、肉眼で見たところで一喜一憂したり、ね、まあ人から笑われるとか馬鹿にされるとかといったような事で、いわばやってまいりましてはね。本当なおかげにはつながりません。
なら、それからと言って、なら易学なら易学に表われて来る通りにこうやって利用して いくという事は、いよいよ天地を狭くしていく事であって、ね、大きなおかげには繋りません。も、それこそ天地を、の、それこそ自由自在な、ね、生き方、どんな場合であっても有難しと答えを出していく生き方、ね、しかもそれをそういう稽古をしようとすると楽しう有難う出来ていく手立てが、ま、合楽で説かれる御理念だと思うです。ね
この辺のところを、まあ、色々話すと大変面白い話になりますけれども大変長くなるか ら、ま、今日私思うにですね、例えば泥棒じゃ乞食じゃ馬鹿だ阿呆だと言われるような事が、私は本当な生き方をしょったら必ずあると思うです。それをカバーしながら、言われん事、ね、思われん事というような生き方では信心は絶対進まんですね。人間の面を見たり、神様の面を見たりしていくような生き方では、おかげにならんです。まず、お徳を受ける事が先です。神徳を受けておかげを頂くと、あっ、成程神様だなあ、やっぱ信心しござったら違うなあという、いうならばね、親の代より子の代と繋っていくようなおかげの世界に住む事が出来るんです。
信心さして頂いて、人の物笑いになるような事をせよという意味じゃないですよ。ただ 、教祖が教えられる教えの中には、ね、正しい事ではなくて、本当な事を教えられる。その本当の事の中には、場合には非人情的な非道徳的な感じさえするような生き方があるのですけれども、ね。こうが本当だと。本当な、いわゆる実験実証を心の中に頂きながら、それを進めていくという事がです、これはまあ私の信心の、ま、を、皆さんがいつも聞いて下さるから、それを、ま、振り返って見ればわかるですね。
なら、現在でもやっぱり、ま、いろいろいうなら合楽がいかにも間違うとるように言う 人もあります。言われてもおりますけれども、そういう事には無頓着、ただ神様の仰せには背かれんという生き方をいよいよ身に着けていくかぎり、ね。天地の中にね、いわば世間が狭うなっていくという事はない。いよいよ世間は広うなってくる。いよいよおかげの世界も広うなってくる。いよいよ、子の代よりも孫の代と広がっていく、その元を頂くような信心を頂きたいですね。
決して、なら非人情とか非道徳的なというからというてですね、信心のない人達が非人 情と思うておる事では、本当に、例えば教えに基がないね。悪いことをせよという意味じゃないのです。問題は、教えに基づく生き方というのです。その教えを、私共はね、ただ正直でさえあれば良いといった観念があります。正直の頭に神宿るといったような、全然間違った事を本当の事のように思うております。
夕べの御理解にも、至誠天に通ずる、という事をです、ね、自分は誠だから必ず天に通 ずる、で、通じない人がどの位あるか分かりません。それは、その本当のそれが至誠ではないからです、ね。本当の至誠というのは、誠というのはね、も、天地日月の心になる事意外にないです。
昨日は、その地心水真という事でしたね。地の心こそが真なのだ、ね、水の心こそが真 なのだと、ね。そういういわば、いよいよ真を真としての本当な事、ね。私共が観念しておるこれが至誠だ、真だというのとは意味が大変違ってくるね。そこに、どこで見分けるかというとね、観念してきた私共の真という至誠というものはおかげが伴わない、ね。金光大神の教えには、必ずおかげが伴う。それは、いうなら本当の、いわゆる天地の真だからです。天地の真を擁してくる時には、易学とか気学、いや、兎に角そういう事は天地に対する違反のようなものだ。ある意味合いでは違反にならないような手立てをしておるけれども、どこにかそこに落とし穴があってね、そういうことで道を開こうとか幸福になろうとかというような考え方は、本当に早まったまた間違った考え方ですよね。馬鹿といわれてもよし、ね、いわゆる本当な道を辿らして頂きたい。
                                   どうぞ